変化する感覚
昔、なんとも思っていなかったCDをなんとなく聴き直してみると、輝いているところを見つけてしまって、大好きになることがある。当時では、気がつくことができなかった魅力が、自然と体の中に流れ込んでくるのだ。
「好き」にルールはない。
しかし、ディレクターなどという職業は、どうすれば「いい歌」や「いい演奏」をレコーディングできるのか、などということを、真剣に考えつづけてきたわけで、それが、自分なりにわかってきた。その結果、基準が明確に体の中に生まれて、自然と判断できるようになったようです。
このフィルターを通過するときに、ぼくの中の「気持ちいい」というスイッチが押されるようです。
歌、音楽で全員が気にするポイントは、音程、ハーモニー、リズムです。あと、歌なら声質というのが大きな要素になりますが、ぼくはあまり気にしません。なぜかというと、ぼくが気にしても、その人の声質が変わることがないからです。
気にしても、気にしなくても、変化することがない部分は、ぼくの問題ではありません。木枯らし紋次郎的にいえば、「あっしには関わりがねぇこって」というわけです。
そして、ぼくは歌い方や、表現には介入しません。よくテレビや、演歌の先生とか、歌い方の指導をしているところをみるけど、それはある一例を示すということで、そのあとの判断は、歌い手本人が決めればいいという考え方をしています。
聞かれれば、ぼくの感覚としていの意見やアイデアは伝えます。しかし、そここそが、パフォーマーのやるべき分野です。たとえば、変わった歌い方を否定したディレクションをしているとすると、桑田圭介さんや、井上陽水さんも、忌野清志郎さんも、ありえない歌い方ということになります。これこそ表現で、個性であるわけです。
もちろん「好き」か「嫌い」にルールはありませんから、好きな人も嫌いな人もいることでしょう。しかし、ぼくはこの3名の方はとても好きです。
3名に共通するところは、言葉が聞こえることです。これがとても大切だと思っています。伝えたい言葉がある、それを歌って伝えたいのですから、言葉が聞こえるのは大切です。
最近、テレビで日本語の歌詞がすべて字幕で流されています。
あれは、たぶん、言葉が聞こえないことがたくさん起きている証拠ではないかとおもっています。演歌ではだいたい言葉がはっきり聞こえますが、アイドルの中には言葉がよくわからないと感じることがあります。その場合に字幕は、有効な手段だとおもいます。
しかし、歌は聴覚で言葉をとらえ、視覚でほかの情報をキャッチして楽しみたいと思い、そこを目指す方法を考えています。